連日新聞、ニュース報道で大学入試でのカンニング問題が取り立たされている。

東北の予備校生の犯行で、これだけ注目されているのは試験問題をネットに掲載し、
回答を求めるという手口が社会に与えるインパクトが大きかったからだろう。

私が学生だった20年ほど前は、受験戦争と呼ばれた時代で受験生が多く、
どこの大学も競争倍率が高く、皆必死だった記憶がある。
その頃のカンニングと言えばせいぜい前後左右の人の答案を盗み見するとか消しゴムに
英単語を書き込むとかアナログなカンニングで、現在の携帯電話のようなハイテクなものは無く、
せいぜいポケットベルが先端の通信機器だった。
だからなのか、カンニングで事件というよりは、裏口入学の斡旋や入試問題が盗まれるといった事件が
起こっていた。私自身入試でカンニングをしたことはないし、
周りでカンニングをしたとか誰か捕まったという話も聞いたことがない。
ただ、私が知らないだけでカンニングがあったのかも知れないが、当時の入試会場にいる試験官は
挙動不審な受験生はいないか、というよりは見回りながら解答用紙に名前を書いていない受験生を見つけると
指で名前の欄をトントンと教えてくれるなど『試験頑張れ』と応援してくれている暖かさがあり、
ある意味選考する側・される側との間にある種の信頼関係があった。

それが今回の事件で崩れ、ある教育評論家の意見では単なる結果論から
『危機管理体制が乏しい、遅すぎた』とカンニングされた側の非も指摘されている。
学生を端から信頼せず、悪いことをするものだという前提で不正行為に対する危機管理から
監視カメラや電波妨害措置などを設置することが教育上正しいのだろうか?

裏切った方よりも裏切られた方がバカなのか?

今の時代は、あらゆる信頼関係が崩壊してきているのだと思う。

ハイテク技術の進化により、物理的な時間と距離は飛躍的に近づき、
欲しい情報がすぐに得られるという恩恵もあるが、ネットによる匿名性が増したことによる
人と人との心の距離はより離れていっているという副作用も大きい。

今回のカンニング事件、大相撲の八百長問題、アフリカ諸国での紛争問題、
どれも自分さえ良ければ他の人はどうでもいいと個人主義から起こっている。
カンニングをしてでも合格できれば、それによって真面目に受験している人が不合格でも良い、
勝ち星のやり取りをして今の地位を維持してお金をもらえるならば、
一生懸命努力して十両になろうとしている人がどうなっても良いと本当に思っているのだろうか?

バレなければ何でも良い、というのは正々堂々さがなく、潔くない。
  
企業の労務管理でも最近似たような悩みが多い。
「席が近いのに話をせず、メールで仕事の要件を伝える。」
「仕事を辞めるのに上司に直接話しづらいから、メールで辞表添付して送る。」
 
伝達手段にメールというのは最低限自分の要件だけは伝えたに過ぎず、
相手への配慮・自分の仕事への責任感がそこには全く無いことが問題である。

「自分が仕事を急に辞める、休むことで他の人にどれだけ迷惑を掛けてしまうだろうか?」と
考えることが最低限出来て初めて社会人であり、責任を持つことで人から信頼されるのである。
 
企業にとって『自分さえ良ければ』『自分のことしか考えていない』という社会人に
常識から教育することはすごく手間であり、学歴だけで常識ない人材よりも常識ある人材の方が
戦力となる時代になってきている。

この4月からやって良いこと悪いことを一から教えないといけない若者が社会に出てくるので
また色々な人事相談が増えると思うと楽しみな反面、
現行の3年以内既卒者採用拡大奨励金で100万円を付けないと採用されない学生が多いというのは
今の日本の若者に信頼される力がないのだと思うと情けなくなる。